世界平和を目指さなくてよいのなら、人生は全て余生のやうなものなのかもしれない。
余生のお勧めはと問われると、最近は、ゴルフのやうな気がしている。年中ゴルフばかりして日本国内を転戦している知り合いが何人か居る。率直にうらやましいと思う。
以前は別段うらやましさは感じなかつた。ゴルフ以外にもやる事は数多くあるからである。逆に、どうしてそんなにゴルフばかり出来るのだらうと不思議に思つていた。
そのやうな思いが変わつた切つ掛けは、友人に勧められてある漫画を読んだことであつた。
尤もらしい、立派な事を言う人には、気を付けろ。
その漫画にはそのやうなことが書いてあつた。
立派な事を言われると、反論はできないから、同調することになる。しかし、時として立派な事は、立派さだけが目立ち、実現のための具体的な道筋が示されていないことがある。
このやうな場合、立派な事は同時に危険な事でもある。そのやうに漫画に書いてあつた。
私は思つた。
もしかしてこれは私にとつては、世界平和のことではないだらうか。
私は原爆の被爆県で生まれ、平和教育を受けて育つた。小学校では毎年原爆の授業があり、劇団が学校に来て原爆の歌を歌つた。保健室の前は掲示板に怖ろしい写真が沢山貼つてあり、通るのが怖い程であつた。四年生の原爆資料館見学の日、私は熱を出して学校を休んだ。
さうした平和教育を受けた私は、世界平和の実現を祈つた。日本国内では平和が達成されている。世界でも平和の達成は可能であらう。
世界平和を祈つたのは私だけではないはずである。しかしその祈りは、この五年ほどの間に打ち砕かれてしまつたやうな気がしている。
改めて考えてみると、世界平和には何か前提条件というものがあるのであらう。一足飛びに世界平和の実現を目指すより、まずは前提条件の達成を目指すべきであるし、前提条件が何なのかを考えるべきなのであらう。
この時初めて私は、年中ゴルフばかりしている人の気持ちが判つた気がした。世界平和の前提条件が判らないために、ゴルフ以外にやる事が無いのであらう。
私の場合、そもそもゴルフの技術が乏しい。ゴルフのお誘いは少ないし、ゴルフに行く時間的、金銭的余裕も少ない。それでも考え方ひとつで、ゴルフをすることはできる。
例えばサツカーである。芝生で球を追う点はゴルフと何ら異ならない。サツカーというゴルフである。
麻雀も緑色のマットの上でルールを守つて点数を競うところはゴルフに似ている。麻雀というゴルフである。
カラオケも手に道具を握つて状況に応じてベストを尽くすという点において(中略)カラオケというゴルフである。
私が最近やらなくなつたもので言えば、車の運転も登山も(中略)ゴルフである。もう全部ゴルフでいい。
ゴルフとは状況に応じてベストを尽くし、常に次へ次へと進むものであり、人生そのものに似ている。
余生のお勧めのゴルフは人生そのものなのであるから、結局のところ余生も人生なのであらう。
はい。よく判らなくなりました。もしかするとアイキユー二百六十なのかもしれないな。
‥‥そんなわけないか。