第34夜(2025年5月8日) 紳士


 紳士のアイテムといえばハンカチーフである。涙を流すレデイに対し、これで涙を拭きなさいと言いながらハンカチーフを手渡すと、何て気配りの有る優しい紳士でせうかとレデイが感じ入る場面を漫画で見たことがあるけれども、じつさいにそのやうな場面に出くわしたことは一度も無い。ならばハンカチーフを持参するのは止めにしやうかと毎回旅行に出掛ける度に悩むのであるけれども、今回の旅行には持参することにした。

 今回の旅行は家族旅行である。ゴールデンウイークと言えば家族旅行である。我が家では子どもがもうすぐ成人するので最後の家族旅行になるかもしれぬと思い、奮発して三泊四日の旅行を敢行した。その最終日の出来事である。



 私はレンタカーに同乗していた家族を先に降ろしてから駐車場を探した。家族は市街地にあるラーメン店の行列に先に並んでいる。駐車場は程なくして見つかり、私も行列に合流することにした。その前にトイレを済ませておこうと思い公衆トイレへ行き、トイレのウオシユレツトとトイレツトペーパーを用いて用を足した後の尻を綺麗に拭こうとしたところ、何度試みても綺麗にならない。私は立ち上がつて後方を見て驚愕した。トイレの白い便座に茶色い物がべつとりと付着している。なななな何で。便の不時着である。私の知らぬところで不時着事件が起きていたのである。



 私は清廉潔白な生い立ちであり、このやうな不時着事件は初めてであつた。記憶に自信が無いので単に忘れているだけかもしれぬけれども。このやうな初めての事件に遭遇したときはまずは落ち着くことである、私はさう自分に言い聞かせて、まずはトイレツトペーパーを用いて白い便座を綺麗にした。



 問題は私の尻である。どこにどのやうに茶色い物が付着しているのか全く判らない。自分の尻は自分で見ることができないことに私は初めて気が付いた。発見である。有り難くないけれども発見は発見である。人生の一歩前進である。

 乾いたトイレツトペーパーでは茶色い物を綺麗に拭い去ることはできないであらう。私は濡らしたトイレツトペーパーで尻を拭うことにした。諸君ご存じの通り、トイレツトペーパーでトイレが詰まらないやうに、トイレットペーパーは予め水に弱く設定されている。かくして私の尻には茶色い物と水に濡れて弱くなつたトイレツトペーパーの欠片が交互に付着することになつた。

 折悪しく家の者からの電話が鳴る。幸いまだラーメン店の行列の途中であるらしい。何処に居るの何をして居るのには婉曲に答えて事なきを得たけれども、急いで家族の待つ行列に合流しなければならない。



 どうしたものか。私はインドの古哲に倣い、掌を用いることにした。ここで左の尻は左の掌でなければ拭けぬという新たな発見があつた。有り難くない。暫く水で濡らした掌で尻を拭いた。見ることができないけれども尻を拭くことには成功したはずである。

 しかし、水でびちやびちやの尻をどうしたものか。ここでトイレツトペーパーを用いると、私の尻には水に濡れて弱くなつたトイレツトペーパーの欠片が再び付着してしまい、永久機関が完成してしまう。



 私はふと、紳士のアイテムを悩んだ末に持参していた事を思い出した。鞄から取り出したハンカチーフで拭くと尻の水気は綺麗に取れたので、私は何事も無かつたかのやうな顔をしてハンカチーフを畳んで元通りに鞄に仕舞い込んだ。なるほどこれは紳士のアイテムである。さうして私は何事も無かつたかのやうな顔をして家族の待つラーメン店の行列に合流する事が出来た。



 このやうな次第であつたから、何事も無かつたかのやうな顔をしてハンカチーフを持つている紳士は信用ならぬのである。お気を付けられたい。貴方に差し出されたハンカチーフも、もしかすると尻を拭いた後のものかもしれぬから。






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2025/5/8
文責:福武 功蔵