第16夜(2024年9月29日) ぎやふん


 休日に家の者に留守番を言い渡されて昼時になつた。暇があるのでこの間の思索を文章に起こして雑文を書こうと思い、筆を執つている。といつてももちろんこの時代に筆を執ることはなく、パソコンのキーボードを叩いているのであるけれど。

 元々は朝、家の者にいろいろと説諭されて私がぎやふんと言つたのが始まりである。じっさいにぎやふんと言う人は居ないのではないかと読者諸君はお思いかもしれないけれどこれは人による。私はぎやふんと言う方の人である。言う側の気持ちを考察してみるとどうやら相手の言説によつて退路を全く断たれてしまつたときに思わずぎやふんと言うようである。ぎやふんと言うよりも他に台詞が思い付かない。わざわざ心の声を発声して負けを認めるよりも黙して心の中でぎやふんと言えばいいとの考え方もあらうけれども、それは韜晦の一種ではなかろうか。負けを認めるときは潔く認めるがいい。



 私が気になつたのは、牛糞でもなく魚粉でもなくぎやふんなのは何故かということである。調べたら初出は「社会百面相」という内田魯庵の小説とのことで、早速きんどる版を購入して読んでみた。江戸時代から続く戯作の流れを引く文体で、筋は無いけれど、会話が活き活きとして面白い。目当てのぎやふんは犬物語という犬が語る一篇の中にあり、女性に求婚した博士が、女性から論文を書いた方がいいと言われてギヤフンと参るというもの。原典はぎやふんではなくギヤフンであつた。推測するに、驚きのギヤーとやり込められて黙り込むフンとがつながつた江戸言葉なのであらう。

 内田魯庵の犬物語は犬が少しく小利口で手厳しい。夏目漱石の猫はおおらかに馬鹿を馬鹿のまま描いている。犬物語は明治三十五年、夏目漱石の猫は明治三十八年の作。夏目漱石の猫に寒月君という登場人物が登場するのだけれど、内田魯庵の友人に淡島寒月という名の文人がいるから、寒月君はオマージユなのかもしれない。

 内田魯庵の墓が多摩地域の多磨霊園にあるというので、墓参したいと思つたのだけれど、あいにく家の者に留守番を言い遣つている。これがあいにくというものである。あいにくはあいにくであり、合い挽きや逢い引きとは異なるので注意されたい。別段ハンバーグを食べられたり美女と出会えたりするわけではない。



 翌日。満を持して内田魯庵の墓参りに出掛けた。満を持しての意味が分からないけれど、別に満を持つて行つたわけでもないけれど、このような場合には古来より満を持するというようであるからそれはいい。事前に調べたところ多磨霊園の十二区二種一側一番にその墓はあるという。地図を頼りに墓の場所を目指したけれど、通りを間違えて東郷平八郎の墓を見つけてしまつた。東郷平八郎の墓には年配の紳士が墓参しており、墓も綺麗に手入れがなされていた。

 地図を見直して何とか内田魯庵の墓に辿り着いた。どうやら一種が通り沿い、二種は内側の墓という別があるようで、十二区をぐるりと回り込んで辿り着いた。東郷平八郎の墓は一種なのであらう、内田魯庵の墓は二種である。それはいい。草が生え放題に生えている。草。草。草。眺めているうちにこれはこれでいい気がしてきた。歳月を感じさせるし、何といつてもギヤフンの先生なのである。

 魯庵先生は世が世なら夏目漱石と同等の評もあつたであろうに、明治の文人の墓に誰も墓参しないのは侘しいと思いながら、手を合わせて、私も文人にならうと思いますと心の中で呟いて帰つた。誰も墓参しないのは侘しいといつたけれど、そういえば百年越しの読者になつた私が墓参していたな。ぎやふん。魯庵先生これで宜しいでせうか。






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2024/9/29
文責:福武 功蔵