家の近所に新しくできた惣菜屋まで、家の者と一緒に夕食の惣菜を買いに歩いて行くことにした。日中は暑かつたけれど、昼寝して起きてみれば少し涼しくなつていて、腰痛のリハビリ治療の散歩をするには丁度良い塩梅の天気である。
一度訪れたことのある店だつたので、どこかの路地の角にその店はあつたという、うつすらとした記憶を頼りに歩いた。
この道だつたつけ、と家の者がいう。
この道だつたと思う、この道はどこに続く道か、行けば判るさ行つてみよう、と私が答えると、それは誰の言葉だつたつけ、と家の者が尋ねるので、アントニオ猪木さんだよと教えてあげた。
家の者は首をひねりながら、高村光太郎じやなかつたつけ、という。
うん。詩人の高村光太郎さんの言葉は、たしか、こうだらう。
ぼくの前に道はある。ぼくの後に道はない。
あれ?ぼくの前にも後にも道はないんだつたつけ、それともぼくの前にも後にも道はあるんだつたつけ。私は判らなくなつてしまつた。
家の者がスマートフオンで調べてくれて、こういつた。
道じやないよ。道程だよ。道(みち)に、程(ほど)と書いて道程。
そうそう、それ、道程(みちほど)ね。光太郎さんのみちほど。たぶん正解は、前には道がなくて後ろに道があつたんじやなかつたかな。私がそういうと、家の者が、詩の中に光太郎さんのお父さんが出てくると教えてくれた。そうか、お父さんのみちほどか。言つているうちに、だんだん楽しくなつてきた。まとめると、こういうこと。
たしか、光太郎さんのお父さんのみちほどは、前には道がなくて後ろに道があるようなみちほどだつたと思うよ。
道にしたがって進むと惣菜屋に着いたので、惣菜を買つて帰ることにした。私は腰痛のリハビリ治療のためにもう少し一人で散歩して、デザートのプリンを買つて帰つた。惣菜もプリンも美味しかつた。今日のみちほどは良いみちほどだつたと思う。