第3夜(2024年6月4日) びやんびやん


 雨の日、半日以上かかつた仕事を終えると昼ご飯は夕方五時になつてしまつた。乗り換え駅からほど近い場所にあるカウンター席だけのラーメン店である。替え玉無料が好評で満席となつており、雨が降る中で空腹を抱えながら、しばらく店の外で待つこととなつた。

 店内に入つて気付いたけれど、客は外国人の人ばかりである。店員に麺の固さを尋ねられて「ふつう」とたどたどしく答えるのが可愛らしい。中国の人なのか東南アジアの人なのか判らないけれど、どちらも食べ物が美味しい、食文化の豊かな国である。このラーメン店も前々から美味しいと思つてはいたけれど、食文化の豊かな人たちのお墨付きをもらつたようなうれしい気分になつた。空腹にラーメンは非常に美味しい。夕食のことも考えて、替え玉は一玉にとどめた。

 満席だつた席は、私が食べ終わる頃には半分が空いていた。私はたまたま一群のラーメン好き連に遭遇してしまつたのであろう。ラーメン好き連は同時に食べ終わつて、私が気付かない間に素早く立ち去つたようである。



 先日来腰が痛いので、整骨院へ行つて腰を診てもらう予定であつたけれど、予定時間よりも小一時間ばかり早いので、喫茶店で珈琲を飲みながら駄文の推敲をした。さう、この駄文はこれでも推敲をしているのである。

 隣の卓子に座つたマダム連が、びやんびやん麺のびやんびやんという言葉は日本語にはないわねえと互いに話している。そりやないに決まつているだろうと思う。びやんびやん麺のびやんびやんという字は、字画が五十七画もある複雑極まる漢字が二個並ぶと聞いたことがある、もちろん書くことはできない。ふと先ほどのラーメン店で、ラーメン好き連が同時に食べ終わつて素早く立ち去つた様子をびやんびやんで表現できないかと考えてみたけれども、素早さの表現はびゆんびゆんの方が勝る。なかなかびやんびやんとはいかない。

 喫茶店を出るときに傘を忘れて取りに戻つた。私は傘を忘れることが多く、雨が上がつた場合はほぼ百パーセントの割合で忘れてしまう。雨はほぼ上がつていたから、整骨院を出るときにも傘を忘れそうになり、声を掛けてもらつた。



 無事に傘を持ち帰り、家で遅い夕食をとつていると、雨が激しく降り始めた。あまつさえゴロゴロと雷様登場の音がする。少し冷えてきたので、家の者が二階の窓を閉めるために階段を上つて行つた。

 私が夕食をとりながら裏口の方を何ともなく眺めていると、少し開けてある裏口の扉の隙間が激しく明滅するのが見えた。雷様が落ちたのであろう、近くに落ちたかなと思つていたら、案の定、二秒後くらいに大音量が鳴り響いた。二階からは家の者のびやつという声がする。雷様を食らつてしまつたのだろうか。家の者の安否が心配であつたけれども、私は両手に箸と皿を持つていたので、咄嗟に動くことはしなかつた。長年の経験から、このような場合に咄嗟に動くとろくなことにならないことを私は知つている。

 近かつたねえ、すごい音だつたねえなどと下階で話していると、二階から家の者が降りてきて、雷が落ちた後、近くの駐車場の車がうるさいことになつて収拾が付かない有様だつたと言つた。車は何か異常があると警報音をうるさく鳴らして異常を周囲に知らせるのである。これが結構な近所迷惑になるので、私も車を持つていた時分には気を遣つたものだつた、などと思いを巡らせていたら刹那、私の灰色の脳細胞が雷様と見まがうばかりに明滅するのが感じられた。



 私は家の者に、喫茶店で聞いたマダム連の話をして聞かせた。その上で、家の者に先ほどの落雷の再現をしてもらつた。



 家の者いわく、ぴかと雷様が落ちて、二秒後くらいにゴロゴロと激しく大音量が鳴り響き、びやつと声を出して驚いて、駐車場の車が、びやんびやんと警報音を鳴らし、収拾が付かなくなる。

 さう、車の警報音は、びやんびやんなのである。うはははは。



 もう一度。今度は私が再現してみる。

 ぴか、ゴロゴロ、びやつ、びやんびやん。うはははは。家の者も笑つてくれた。



 家の者が声を出して驚いたのは、雷様が落ちた瞬間ではなく、二秒後に大音量が鳴り響いた瞬間であつたことも、期せずして判つた。音の速度は毎秒三百四十メートルであるから、家の者は落雷地点から六百八十メートル離れた安全圏に居たということになる。

 家の者のびやつはびやつでも、比較的安全なびやつであつた。私は、密かに胸を撫で下ろしたのである。






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2024/6/4
文責:福武 功蔵