第155回 普通の暮らしの巻


 長い旅から帰ってきたように思います。もちろん、すべてが終わったわけではなく、明日からまた新しい旅が始まります。それでも、今回の旅は長かった。



 長い旅は、昨年10月の魔法少女まどか☆マギカの視聴から始まりました。じつは利己と利他が一致していない、絶望の淵にある世界。必要なものはエンパワーメントだと知りました。

 エンパワーメントは、勇気や元気が足りていない人たちを勇気づけ、元気づけていくこと。自分が周囲に働きかけることで世界を変えていく試みです。

 最近、エンパワーメントとはエイブル化(able化)であることに気付きました。

 物の見方を変えていくこと。何かができないとか、お金が足りないとかではなくて、できることは何か、今あるお金で何を買おうかというように、できる(エイブル)方向で物事を見直していくことです。



 昨年12月のリコリス・リコイルの視聴では、世界との関わり方を学びました。利己と利他を一致させたいからといって、自己を拡大して世界そのものと一致させてしまうと、世界が混乱したときに解決が付かなくなってしまいます。

 そうではなく、自分中心の小宇宙を自分でしっかり守っていくこと。昔から言われている、一隅を照らす存在になれ、ということでしょうか。

 エンパワーメントとの関係では、パラダイムの転換がありました。

 自分ひとりが強くなればよいという方向性ではなく、自分自身は特別に強くなくても、自分と同じように他人を勇気づけ、元気づける人の数が、どんどん増えていけばよいという方向性が見えてきたのです。



 今年4月のチェンソーマンの視聴では、幸せって何だろうな、と考えさせられました。言葉を換えて言えば、何を目指すべきなのか、ということです。今日、コラムニストひかりさんの記事が、お金以外の「豊かさ」の例について、アンケートの結果として、次のような内容を紹介しておられました。

 家族や友人や猫。自然と触れ合うこと。時間があること。心の余裕があること。文化を味わうこと。

 ―なるほど。豊かに創作ができることや、時間を忘れて打ち込むことのできる趣味があることも、ここでいう「豊かさ」に含まれるでしょう。

 お金についていえば、いくらお金を持っていれば豊かであるというような指標はありませんが、お金のことをそれほど気にせずに生活することができるのは「豊かさ」といえるでしょう。



 チェンソーマンの主人公デンジ。第1話の彼の言葉が私の心に引っ掛かっていました。

「そんで、この街を出て、そんで、普通の暮らしをして、普通の死に方をしてほしい」

 一見、なんでもない言葉のようですが―

 今日、道を歩いていて、この言葉を思い出して、背筋がぞわっとしました。

 これが、戦火の中で傷付き死んでいった、過去の多くの人の言葉だったらと思うと―

 ちょうど、前日に広島で首脳サミットがあり、各国首脳が原爆死没者慰霊碑に献花したというニュースが流れていました。



 私は、私ただひとりの存在ではありません。

 私には両親がいて、きょうだいがいて、―もう亡くなってしまった、祖父母や、ずっと昔の時代の祖先がいて、それぞれが子孫を残しながらそれぞれの人生を生きて―

 そして、私がこうして考える、紡ぎ出す言葉は、さらにもっと多くの昔の人たちが関わって作り上げたものであって、その多くの人たちも、それぞれの人生を生きて―

 もちろん私に限った話ではなく、皆様も同じことです。



 ぞわっとしたのは、ただひとりの存在ではない私自身が、デンジの言葉を強く肯定するように感じられたからです。

 普通の暮らしの有り難みを、身体で感じたと言いましょうか―

 この国でも昔は戦争が数多くありました。戦火に傷付いた人は数多く、中には根絶やしにされてしまった一族もあったことでしょう。



 ―そんで、普通の暮らしをして、普通の死に方をしてほしい―

 私にとって、特に強く響いたのは、普通の死に方をしてほしい、というところでした。

 自分の死は認識できないという理由から、死について、私は考えようとしてこなかったのですが、普通の死に方というのは、じつはとっても難しいことであるように思いました。

 普通の死に方ができるのは、きっと、普通の暮らしができた人です。普通の暮らしというのも、じつはけっこう難しいことなのかもしれません―普通の暮らしをするには、お金もそれなりに必要だし、お金以外の「豊かさ」もそれなりに必要です。

 それはつまりは、普通の暮らしをすることが、幸せということなのでしょう。



 チェンソーマンを視聴して、私には当面の目標ができました。それは、普通の暮らしをすること。―もっと、意識的に。



 長い旅でした。普通の暮らしをしていた私が、普通の暮らしをすることを当面の目標にするところへと、帰ってくることができたのです。

 メーテルリンクの童話「青い鳥」のような、約8か月間の長い旅でした。



 ところで、お金は、何円と数えることのできるものなので、自分が持っているお金は、表現としては「何円ある」であり、常にお金は「ある」というのが、上述のエイブル化した考え方です。

 お金は、何円と数えることのできるものなので、自分が持っているお金を他人が持っているお金と比較することも可能です。

 しかし、可能というだけであって、比較しても意味はないので、比較するのは止めた方がよいでしょう。

 他人の懐事情がなんとなく気になるのは、単なる好奇心であって、どうやらそれ以上の意味はないように思われるのでした。



 追記:下の写真の絵は、フランスの画家キロメロさんの、じつは青い鳥は、いっぱいいるという趣旨の絵です。気に入って壁にかけています。

 室内だと光が反射してうまく撮影できないので、屋外へ持ち出してみました。今日はいい天気です。

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2023/5/20、5/25追記
文責:福武 功蔵