「まどかマギカ」の考察を書いたサイトをいくつか見ましたが、とても深いことが書いてありました。
子どもが大人になる物語であるとか、希望を絶望で表現した物語であるとか。
ガンダム、エヴァンゲリオン以来の名作と言われる由縁でありましょう。
こんなにも見る人の感情を揺さぶって、深い考察を生むような素晴らしい作品を、私も作ることができたら、本当に、それはとっても嬉しいなって思います。
私は、現実世界と無関係とは言えない、中間的なファンタジーだと思いました。
一般には、ダークファンタジーと表現されることが多いようであり、この表現は、同じくダークファンタジーと呼ばれる「鋼の錬金術師」を想起させます。
こちらも絶望を表現することで希望を表現していました。「等価交換」がこの世の真理であることも。
「まどかマギカ」は、一歩論を進めています。
希望を持ってよいのだと。
物理法則(熱力学第二の法則)は破ることができるのだと。
私はずいぶん前に、週間SPA!で連載されていた、ゴルフをたしなむオヤジギャルを描いた中尊寺ゆつこ先生の漫画を読んで、人間はプラスのエネルギーの塊でよいということを学びました(確か「スイートスポツト」最終話にそういう台詞がありました。)。
物理法則を破り、プラスとマイナスが釣り合わなくてもよいのだと。
そのことが今も私を支えてくれています。
中国古典を学んでいたこともよかった。
中国古典で言う修身とは、自分の中で利己(自分のため)と利他(他人のため)を一致させる行為でもあり、自分のために行動することが常に他人のため、ひいては世の中のためにもなるような、そういう自分を完成させたときに、修身は完成するのだと思います。
もちろん言うは易しですが。
利己(自分のため)と利他(他人のため)が一致していれば、絶望はぐっと少なくなります。
「まどかマギカ」を深読みすれば、物語終盤で戦う二人の少女の姿は、利己と利他との争いや、利己と一致しない利他が呪いとなり、絶望へ変わることを描いていると言えます。
考察サイトを見る前の自分を振り返って、私ってほんとバカ、と思いました。
絶望という言葉が出てこなかった、つまりは絶望しなかったからです。頭が悪いのかもしれません。
私はただひたすら、助けたい、でも助けることができないという無力感を感じていました。ペルソナQ以来の、大きな無力感でした。
でも、絶望を、無力感という言葉に変えることが、私にはできます。
絶望という言葉には希望はありませんが、無力感という言葉には、きっと、エンパワーメントという周囲の、あるいはお互いの支えが希望になるはずです。
言葉の力を信じてみませんか?