「修行とパワハラはさ、見方の違いだけだと思うんだよなあ」
通りかかった人の会話が聞こえてきました。たしかに、そうなのかもしれない。
見方の違いという問題は、広くて深い。
広く言えば、世の中で起きているほとんどの問題は、立場や経験の違いに基づいた、見方の違いなのです。深く言えば、見方の違いと思われていない問題ですら、検討を重ねることで見方の違いに落着することがあることでしょう。
どうすればよいのでしょうか。
私たちは、名前を付けるということを簡単に行います。話を要約するという作業に近い。
どんな複雑な物事であっても、要約して名前を付けることで、手に取ることのできるサイズにまで縮めることができます。まるで村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる百科事典棒のように。
私たちは、名前を付けると安心します。まるで昔から知っているような気分になるのです。あるいは、既知の何かに引きつけて考えて、「○○に似ている」「○○と同視できる」などと考えるのかもしれません。
しかし、要約して名前を付けることは、そのもの自体が持つ細かい特異な事柄に目をつぶることにもなってしまいます。ひいてはそのもの自体に向き合っていないということにもなりかねません。
名前を付けるのをやめてみる。
これがよいのではないのでしょうか。そのもの自体と向き合うことから逃げない。
対話を繰り返して、立場や経験から来る見方のちがいをできるだけ少なくする。
そして対話が終わりに近付いたときには、きっと新しい名前が思い付くはずなのです。
とはいえ言うは易しであり、「修行とパワハラ」をまとめる新しい名前は、そんなにすぐには思い付かないのでした。