第128回 イビチャ・オシム 日本サッカーへの遺言の巻


 ナンバーPLUS「イビチャ・オシム 日本サッカーへの遺言」を読了しました。

 オシムは1941年にサラエボに生まれ、地元のクラブFKジェリェズニチャルでサッカー選手のキャリアをスタートさせました。ポジションはフォワード。23歳のときに東京五輪に参加し、日本戦で2点を取り6−1で完勝。翌年妻のアシマさんと結婚し、のちに2男1女を授かります。27歳のときにユーゴスラビア代表で欧州選手権を準優勝し、ベストイレブンに選ばれました。その後はフランスリーグに参戦し、37歳で選手生活を終えました。

 40歳で地元クラブの監督をやりながらユーゴスラビア代表チームのサポートを始め、45歳で代表チームの監督に就任、1990年のイタリアW杯では準々決勝まで進みました。51歳で代表チームの監督を辞任してオーストリアのグラーツへ移り、53歳でSKシュトルム・グラーツの監督に就任。

 2003年、61歳のときに日本のジェフ千葉の監督に就任。リーグでも上位に付け、2005年のヤマザキナビスコ杯で優勝。2006年、日本代表チームの監督に就任。2007年11月、66歳のときに脳梗塞で倒れ、監督を辞任。2009年1月に大勢のサポーター、報道陣、選手に見送られながらオーストリアへ帰国。2011年には母国であるボスニア・ヘルツェゴビナの正常化委員会委員長に就任して母国の窮地を救いました。2022年5月1日、グラーツの自宅において80歳で亡くなったことがクラブから発表されました。

 この経歴だけを見ると、なぜ日本中でオシムの死が惜しまれているのか分からないと思うので、さらに切り込んでみようと思います。



 オシムはサッカーの分野で卓越していました。毎日のように世界中の試合の映像を見て世界の最先端のサッカー、未来のサッカーについて考えを巡らせていました。監督になったどのクラブでも結果を出し、全チームで圧倒的に勝ち越しています(地元クラブでは圧倒的とまではいえませんが、それでも勝ち越しています。)。他の監督と比較すると、相手チームの状況を見ながら最も有効な攻撃を積極的に仕掛け続ける点に特長があると思います。オシムが現役時代にフォワードだったことが影響しているのでしょう。

 欧州有数のクラブであるレアル・マドリーからも監督就任のオファーがあったようです。しかしオシムはビッグクラブを好まず、意欲に溢れた若手を育てることのできる小中規模のクラブを好みました。日本での監督業務は5年足らずでしたが、数多くの若手を育てています。

 2006年のジェフ千葉対浦和レッズ、2007年の日本代表の対スイス戦、対エジプト戦の映像を見返してみました。15年経った今見返しても、新鮮な驚きがありました。巻誠一郎や山岸智は、フィジカルを単純に使うのではなく、タイミング良く使うこと、味方と連携することで相手チームに大きな脅威を与えていました。当時の私たちは、彼ら選手の凄みをよく理解していなかったように思いますが、15年経った今なら―リバプールでフィジカルがあり賢いプレーを繰り返すサラーやマネが大活躍している今なら、よく分かるように思います。

 何人かの日本のサッカーの記者が、オシムがグラーツへ帰国した2009年以降もオシムと連絡を取り、オシムの言葉が折りに触れ日本のメディアに載るということが続きました。このことが2022年になった今でも日本でオシムが惜しまれている大きな要因になっています。

 しかし、なぜ10年間以上もの間、オシムと連絡を取り続けた記者がいたのでしょうか。サッカーの話を聞くだけなら世界には他にも多くの人物がいます。さらに切り込んでみましょう。



 第二次大戦後、日本は経済的成長を遂げて豊かな国になりました。資源の自給率が悪く、再び貧しくなる可能性はあるとしても。就業者全体におけるサラリーマン(給与取得者)の割合は5割から8割へ増え、人々の多くはサラリーマンとなりました。

 私たちの祖父の時代、日本は貧しかった。戦争もあり、今日の日本では考えられない苦難がありました。オシムが日本のおじいちゃんと表現されることがあるのは、オシムが祖国ユーゴスラビアの解体、戦火に巻き込まれたサラエボを経験しているからです。今日の日本では考えられない苦難を経験しているオシムの言葉にはそのひとつひとつに重みがあります。オシム語録とも言われる数多くのオシムの言葉の中から、ひとつを紹介してみましょう。

「作り上げる、つまり攻めることは難しい。でもね、作り上げることの方がいい人生でしょう。そう思いませんか?」―2005年、強化手腕を評価されたときの言葉。



 オシムは、地位を約束されて努力をしない選手を「年金生活者」と表現しました。オシムは新しく監督に就任すると、何人かの「年金生活者」を外して若手にチャンスを与えるのが常でした。「年金生活者」は地位が約束されているので戦おうとしません。そんな姿を見ていると若手も頑張ろうとしなくなってしまいます。この悪循環を断ち切るところから始めるのでした。

 オシムのサッカーは偶然の状況を利用するリアクションサッカーではなく、意図と覚悟を持って攻め続けるアクションサッカーであり、守備面も相手選手と1対1で戦うマンツーマンです。選手には常に主体的、自発的に戦うことが求められました。映像を見ると、ファンタジスタと呼ばれることの多い中村俊輔も遠藤保仁も、自発的に戦う姿勢を明確に表現しており、オシムがそのような環境を作っていたことが分かります。試合が後半の半ばにさしかかると、巻が苦しそうな表情になり、それでも交代するまで全力を尽くしていました。闘莉王はディフェンスラインを離れて何度も攻め上がります。新加入の松井大輔や大久保嘉人も持ち味を最大限に発揮して活躍していました。

 オシムのメッセージは「戦え」という、月給が保証されたサラリーマンの多い現代日本に欠けてしまいがちなピースを埋めるメッセージだったのです。戦わなければ何かを勝ち取ることはできない。



 もちろん、プーチン大統領がウクライナに侵攻している2022年現在において、「戦え」ということは戦争を意味するわけではありません。オシムは明らかに反戦主義者でした。「戦え」とは―先ほどのオシムの言葉に引き直すと、「作り上げる」つまり「創造する」という言葉に置き換えるべきでしょう。

 月給が保証された日本のサラリーマンに対し、オシムは、「もっと創造しろ、創造的な仕事をしろ」とハッパを掛け続けたのです。これこそが日本の記者がオシムに連絡を取り続けた理由だったのだと思います。オシムの言葉が刺さったのです。そして同様に、もっと創造的な仕事をしろというのは―日々の業務に追われてしまっている私にも、痛いほどに刺さる言葉なのです。

「でもね、作り上げることの方がいい人生でしょう。そう思いませんか?」


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2022/6/18
文責:福武 功蔵