第126回 尊重と対話についての巻


 久しぶりに言葉の言い換えについて書きます。友人が「いじめ」を「傷付ける」と言い換えていたのがとても良かったと思いまして、言葉の言い換えについて書くことにしました。

 最近私が気が付いたのは「必要」という言葉です。誰しも、何かが必要かどうかを考えることはあると思います。ただ、そこで行われているのは、優先順位を付けるという話だと思うのです。必要じゃないから要らない、ということでもなくて。

 例えば、人生で必要なことだけやると考えてみると、途端に困ってしまうと思います。もし人生で子どもを育てることだけが必要なら、育て終わったら死ぬことになってしまいます。しかし実際の人生はそうではありません。

 「必要」という言葉を使っていても、じつは優先順位を付けているだけなのです。例えば、最近は弁護士会で運動会をすることが必要かどうかと議論があるのですが、不要ならやらない、ということではなく、他のいろいろな行事との関連で、優先順位を付けているだけなのです。べつに不要なわけではない。そうすると「必要」という言葉そのものがミスリードであることに思い至るのです。



 先だって、尊重と対話が重要であるという話を書きました。この「尊重と対話」という概念は、かなり前の、司法試験の受験時代に考えたことでした。

 当時は自由と平等について、考えていました。自由といっても無制約ではなく、一定の制約がある。平等といっても一定の制約がある―それじゃあ、何なんだ、ということで考えたのです。

 自由が欲しいと言う人は、要は、自分のやることを尊重してくれと言っている。平等が欲しいという人は、要は、不平等な立場に置かれてしまった自分との対話を求めている。そのような結論に達しました。

 この尊重と対話という概念は、小規模な王国の下であっても、超大国によく見られる独裁制の下であっても、十分に機能する概念だと考えます。つまり自由と平等が無い状況の下でも、尊重と対話は図られるべきであると、私はそのように考えます。



 追記:五箇条の御誓文の第三条「官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。」

 起草者の最初の一人である由利公正はこれを第一条に置き、「治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである」と述べているという。目から鱗が落ちた思いをしました。



 尊重と対話は、各々がその志を遂げるために、必要不可欠なのだと思います。

 さらには、自由とは各々がその志を遂げる自由、平等とは各々がその志を遂げることのできる平等と、綺麗に整理することが可能です。

 


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2022/3/24、9/3追記
文責:福武 功蔵