第54回 風景 弐の巻


 初夏の雨の日のバスの中。新型コロナウイルス予防のため乗客は全員マスクをして押し黙っている。立っている人もおり人は多めで蒸し暑さを感じる。途中から乗った私は最後尾の座席に空席を見つけて座った。

 バスが走り出す。私の右前方へ座っている男性が、一人で何かを言っている。

「府中の店が閉店になった、国領の店だけになった」

 男性は同じ話を何回か繰り返す。誰も応答しない。男性の独り言のようだ。

「○○ちゃんはどこへ行ったの」これに対し応答があった。小さな声で、「遠いところ」と。しばらく対話が続く。

 しかしよく見ると、話しているのはその男性だけだ。声色を変えて一人二役を演じている。誰も会話しないバスの中で一人で話していることに強い違和感はあるが、自然な会話に聞こえる。

 男性は、再び府中の店が閉店になったと話した後、「たからしゅぞう、ベニー、ファイアー」と歌い出した。意味は分からないが歌は上手だ。何度も歌が繰り返される。

 蒸し暑さの中で繰り返される男性の歌。一日の疲れもあり、黙って聞いている私の精神がやられてしまいそうだ。しかし私が声を上げたところで何も変わらない、男性はおそらく精神を病んでいるのであろうから。他の乗客も押し黙っている。そのときであった。

 「道路状況のため予定よりも遅れて走行しております」

 バス内に事前録音された女性の声のアナウンスが流れる。3回流れた。その後、

 「お立ちのお客様は危険ですので立ったまま席を移動しないで下さい」

 このアナウンスも3回流れた。私の記憶に基づいて書いているがこのままでは意味不明なので、記憶にずれがあるのだと思う。男性の歌も、正確に思い出すことができないのだが、出だしが宝酒造で最後がファイアーだったのは覚えている。

 アナウンスがなぜ流れたのか分からなかったが、私の精神は少し落ち着きを取り戻したようだった。

 男性の歌に対しアナウンスが流れるというくだりが、私がバスを下りるまで続いた。男性と多くの乗客がまだバスに乗っていたから、さらに続いたものと思われる。

 運転手さんが自らの精神を守るために行ったのかとも思ったが、バスを下りるときに私が御礼を述べた際の運転手さんの様子は平常であった。してみると、私のような疲れた乗客を救うためにあえて意味のないアナウンスを流して下さったのだろうか。

 雨は少し降り止んでいた。

 


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2021/5/27
文責:福武 功蔵