第51回 今日の読書ノート(文明)の巻


 今日の読書ノート。福岡伸一先生が「文明は人の外に、文化は人の中にある」という、文明と文化の違いについての説明をされたという記事をどこかで読んだので、朝方、布団の中で文明について考えてみた。たしかに文明とは、人の外に構築されて、人の生活を便利にするものである。中でも特に画期的なものは、鉄とインターネットだと思った。

 起きて、パソコンでウィキペディアを見ると、文明にはエジプト文明やメソポタミア文明などがあるとあった。なるほどそのような、文明の言い方もある。読んでいくと私が考え落としていた重要な文明があった。文字だ。文字で考えたことを残す、伝えることができるのは極めて重要である。

 さらにウィキペディアを読むと、文明の衝突という言葉があり、サミュエル・フィリップス・ハンティントン教授が文明同士が衝突することがあることを指摘していて、教授が分類した9つの文明の中に、日本文明が日本列島にある独自の文明として存在しているのを見つけて驚いたが、韓国を見ると中国圏に分類されており、これは韓国は不満であろうと思った。まあ世界を9つに分類するのは雑というものであろう。教授の教え子にフランシス・ヨシヒロ・フクヤマ博士がおり、「歴史の終わり」を発表したという。続いてウィキペディアを読む。

 この「歴史の終わり」のウィキペディアのページはどなたが執筆されたのか、優れた名著であり、読むことをお勧めする。フクヤマ博士の主張は、ソビエト連邦の崩壊を見た1992年の作であり、民主主義が最終かつ究極の政治形態であることを説明する内容である。関連してニーチェの主張にも触れており、そちらでも考えることが多くあった。

 結論から言えば、民主主義が最も優れているというのは正しくないし、民主主義を押し付けることも正しくない。中程度の国には民主主義が適しているというだけのことだと思う。小さな国は王国でよく、超大国では国が大きすぎて民主主義が成立しなくなる。ロシアと中国は一党独裁である。アメリカは二党独裁に見えるが、表面的な民主主義は危機に瀕しており、民主主義の特長である対話が困難な状況にある。超大国で民主主義を行いたいなら、国を州に分割して州に大きな権限を与え、中央政府の権限を大幅に縮小するしかないのだが、それだと中央政府の迅速な決定ができなくなるので、結局は独裁制になってしまうのだと思う。

 ニーチェの主張は、自らが所属するヨーロッパ諸国の歴史が略奪者の歴史であることに目を向けた、痛々しさを含む主張である。略奪者が歴史を進めてきたことを何とか肯定的に考えようとしているが、略奪者は略奪者であり、困り者なのである。

 日本は世界の果てに存在する島国だったので、略奪者が歴史を作ることは少なかった。現在も多くの城が残っており、多くの内戦はあったものの、歴史を進めたのは江戸時代の250年の平和であり、その遺産の上に近代化を図った明治・昭和の建築群であるように思う。黒船と進駐軍が来たが、略奪されきることなく過ごすことができた。

 ニーチェの主張する高貴な精神は、作家の精神に置き換えて考えることができる。創作する者は既存の価値にとらわれず自由に創作するべきである。ニーチェのニヒリズムに対する回答は、創作である、と思い付いたが―調べてみたらニーチェ自らが同じことを言っているようである。

 私の夢は、今のこの時代に相応しい新しい建築様式を造ることである。今の技術でこそ可能な何か、新しくて今後長い年月を耐えるような、何か新しい建築様式があるように思う。福岡先生、フクヤマ(福山)博士―私も名前に「福」が付く者として、何とかあやかりたいと思ったのであった。

 


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2021/1/30
文責:福武 功蔵