あたりまえの話。
私は気付くのに50年近くかかりました。遅いような気もするし、意外に早いような気もします。
朝起きて空を見上げる。
家でご飯を食べて出掛ける。
自分の足で歩く。昼が過ぎる。夕方になり西の空を見る。
家に帰りご飯を食べる。暗い夜に眠る。
この繰り返し。これが人生。
一緒にご飯を食べる人。一緒に夜眠る人。
これが家族。
あたりまえの話です。
もしあなたに、よく一緒にご飯を食べる友人がいれば、その友人はあなたの家族です。
少し、お金の話をします―
先日、レストランで小さいコロッケを食べました。
あたりまえの話だと思われるでしょうか。
コロッケの衣は小麦粉。
小麦は北海道の広大な畑や、さらに広大な北米の畑で作られ、製粉場で機械を使って製粉され、船や自動車で運ばれてきました。
コロッケの中身は魚のすり身。
魚は漁船が沖の海で釣ってきます。魚のすり身は加工場で加工され、運ばれてきました。
味付けに、塩。
塩は、長い時間をかけて海水を干して作られ、運ばれてきました。
目には見えないものがあります―料理人のレシピ。
コロッケのレシピには多くの料理人たちによる、長い歴史、多くの工夫があります。
私がコロッケを食べるのに5分とかかりませんが、
ゼロからコロッケを作るとなると、途方もない時間と労力と工夫が必要になります。一人でやると一生を費やすことになるかもしれない。
レストランでコロッケを食べること、これはあたりまえの話ではないのです。ありがたい話。
どうしてそのような、ありがたい話が成り立つのかというと、
ここにお金という仕組みが関わってきます。
農家も漁師も職人も、運送も小売店もレストランも、誰しもが、その仕事を続けるのに仕入れが必要になります。
農家なら肥料や農薬、漁師なら船の燃料や漁具の仕入れが必要で、仕入れの決済にお金という仕組みを使います。
お金という決済のシステムがあるから、世の中―農家や漁師や職人や運送や小売店やレストランが回り、私はコロッケを食べることができるのです。ありがたいことであります。
お金はありがたい。でも、お金は人生ではないし家族でもない。単なる決済のシステムです。
お金に振り回されず、毎日の積み重ねや家族を大切にして、生きていきたいと思います。
朝起きて空を見上げる。家族と仲良くして夜一緒に眠る。そういうあたりまえの営みが大切だと思うのです。