1949年、オーウェル46歳のときの作品で最後の作品と解説にある。
暗澹たる気持ちにしかならないディストピア小説だが、情景や心理の細やかな描写など、SFというより純文学を読んでいるような気持ちになる。
いくつか、当時の社会状況を考えるとびっくりするような記述があるが
(特に1と3は貴族制度や権力者としての教会が現在よりも強固に存在していたであろうから)、
オーウェルは真剣に本書を書いたとのことなので、風刺ではなく真摯な提言なのだろう。
1 結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しえないのだ。(293頁)
2 ビッグ・ブラザーの任務は、愛と恐怖と尊敬とを一身に集める焦点として振舞うことであり、というのも、そうした感情は、組織ではなく、一個人に対して感じるものだからである。(319頁)
3 世襲による貴族政治が常に短命で終わるのに対し、カトリック教会のような候補者公認制度によって支えられた組織が、ときに何百年何千年にわたって存続してきたという事実…(321頁)
4 ニュースピークの目的は…イングソック以外の思考様式を不可能にすることでもあった。オールドスピークが忘れ去られてしまえば、そのときこそ、異端の思考―イングソックの諸原理から外れる思考のことである―を、少なくとも思考がことばに依存している限り、文字通り思考不能にできるはずだ、という思惑が働いていたのである。
…名称を省略形にすると、元の名称にまとわりついていた連想の大部分を削ぎ落とすことによって、その意味を限定し、また巧妙に変えることになると看取されたのである。…「コミンテルン」はほとんど何も考えずに口にできる語であり、一方、「共産主義者インターナショナル」は、口に出す前に少なくとも一瞬、何がしか考えざるを得ない語句である(巻末付録)。
この小説の一番のポイントは、過去や歴史の改変である。
権力者に都合の良いように、過去や歴史がねじ曲げられてしまうのだ。文献も、人々の記憶も。
主人公は抵抗するが、圧倒的な暴力の前に屈服し、過去の改変を受け入れてしまう。
言論の自由が大切であることは今日、言うまでもないことであるが、過去や歴史も大切であることを学んだように思う。
歴史学者はなかなかに重責のある仕事である。
この書が意外と今日的なのは、隣国の中国が似た状況にあることがある。
日本でもテレビ番組が権力に忖度して報道を控えるなど、権力の毒が密かに進行しているおそれがある。
ところで上記の2はこれまで気付かなかったことであり、アメリカのトランプ大統領に感じた違和感の正体が分かった。
歴代の大統領と異なり、トランプ大統領は素直なのか、模範的であろうとしないので、尊敬の対象として違和感があるわけだ。
上記の4は、ヴィトゲンシュタインと同じように、オーウェルが、言語が人間の思考を規定していることを看破していたことを示すが、
皮肉なことを言うと、英語という言語はすでにいろいろなものを失っているような気がする。
簡易に習得できる世界の共通語ということは裏を返せば代償として成熟を放棄しているのであり、
音韻の美しさは代償として多くの含意を放棄しているように思う。
オーウェルが危惧している言語からの人間支配は、英語についていえば中世から既に始まっていた可能性がある。
こわっ。