最近も、相変わらずああでもないかうでもないと言いながら推理小説を書いている、より正確に言うならば書かうとしている。最近は小説の参考にしやうと考えて映画を観ている。
推理小説の古典的名作である八つ墓村の映画を一回観た。推理要素よりもホラー要素が多かつた気がする。魔法少女の映画を十五回観た。観る程に話の意味が判らなくなる。これがゲシユタルト崩壊というものであらうか。
十五回観ている理由は、映像と音楽が素晴らしいからである。結局のところ、映画は映像と音楽を観るものなのであらう。観客は意味は判らなくても構わない。その証拠に十五回目でも映像と音楽で涙が出る。
魔法少女の映画では三人の登場人物が描く心象風景が画面上に事細かに描き込まれており、まるで画家の仕事である。文芸は映画に遠く及ばないと感じる。けれども、そもそもが別物なのであらう。文芸はちまちまと心を描写して読者を困惑させるのがいい。映画を観ても小説の参考にはならない理由が判つた気がした。
ところで先日、もしかすると平成が甦るかもしれない、という広告のキヤツチコピーを街で見掛けて、思わず、さうか平成が甦るかと呟いた。
平成が甦るかどうかの瀬戸際にあるとすると、私が生まれた昭和は、令和の今ではもう死んでいるのかもしれない。
家の者にさう言うと、家の者は、でも今も昭和生まれの人が大多数だよと言う。なるほど。じやあ今は昭和になるかあと私が言うと、家の者はさうはならないと言う。うん。ならないか。
令和になつてから七年半が過ぎやうとしている。私の目には世の中はさほど進んでおらず、昭和と変わりないやうに見える。
埼玉県は水道管の老朽化で陥没したし、千葉県は水道管の排水が大雨による増水に間に合わず水没した。これら地域の他にも地震や土石流で被災したところが大変なことになつていて気の毒である。自動車の事故も相変わらず多い。火事も犯罪もなくならない。
あえて昭和から変わつたところを挙げれば、夏が暑くなつたことと外国人観光客が増えたことと熊の出没が増えたことだらうか。子どもの数は減つたらしい。よく街中で子どもを見掛けるのであまり気付かないけれども、友人の話では昔はもつと子どもの数は多かつたらしい。
いずれについてもさほど問題を感じない。人は状況に適応して生きるものである。
今日は所用が有り、電車を東村山駅で降りた。その時に、令和の今では碇矢(いかりや)長介や志村けんが居なくなつたことを思い出した。志村けんは件のコロナである。
小説は人間を描くものと言われている。見ているだけで面白い人間を亡くしたのは、小説書きとして大変惜しく感じる。駅が工事中で志村けんの銅像は見当たらなかつたけれども、いずれ広場の中央に移設されるさうなので、改めて訪れやうと思つた。
さういう訳で、推理小説は絶賛執筆中である。一行も書いていないけれども、本人が執筆中と言えばそれは執筆中なのである。
ペンネームも決まつた。・・・・気恥ずかしいのでそれは内緒でお願いします。