七月が終わつてしまつた。
やらなければいけない仕事は、まだ山積みである。この間、同業の別の人と話をしたところ、仕事を始めて以来、仕事は結局山積みであつて一度たりとも全部が片付いたことはなかつたということであるから、これは私だけの問題ではない。
どうしたらいいのだろう、帰りの電車の中で考えてみた。
思い切つて、一か月を三十六日にしてみたらどうだらうか。どうせ二月と十二月はあつてないようなものであるから、省いてしまつて、残りの十か月について、一か月を三十六日にしてみるのである。
さうすれば、嗚呼七月が終わつてしまつたと嘆く世間の人に対し、さうですねと相槌を打ちながらも、内心では、じつは七月はまだ終わつていないぞとほくそ笑むことが可能になる。計算してみると、一か月を三十六日にしてみると(二月は省く)、七月三十一日は七月三十二日になつて、七月はまだ残り四日もある。四日もあれば山積みの仕事を少しは片付けることができるだろう。
さらに、これだけではない。一年は三百六十五日あるのだから、一か月を三十六日にしてみると(二月と十二月は省く)、じつに五日もの予備日が出てくる。この予備日は必要に応じて使つてよいことにする。七月は三十六日どころか、四十一日にすることさえ可能になるのである。これだけの時間があれば、山積みの仕事を綺麗さつぱり片付けるも容易というものであろう。
勿論、この方式にも欠点はある。まず二月が存在しないのだから畢竟バレンタインデーも存在しなくなる。私はこれを肯定的に考える。昨今のバレンタインデーは製菓会社の思惑により高級チョコレートを買い愛でるお祭りの日になつてしまつている。本来は獄中で亡くなつた聖人を偲ぶ厳かな日であつたはずであるから、昨今の風潮に私は予てから忸怩たる思いがあつた。
次に、十二月が存在しないのだから、忘年会や隠し芸大会も存在しなくなる。これについても私は肯定的に考える。元々師走というのは人生経験豊かな師匠でも走らざるを得ないくらい忙しいという意味であるから、余裕のない人は忘年会どころではないはずである。余裕のある人だけ、件の予備日の余りを持ち寄つて忘年会や隠し芸大会を行うといい。たまさか余裕があつて予備日を三日も残していたならば、泊まり掛けの旅行で一年の労苦を大いに安らげるといいだらう。
来年からやつてみようかなと来年のことを言うと、鬼が笑うらしい、くわばらくわばら。…はい。明日はちやんと仕事をします。