第168回 鈍感力の巻


 私は割と最近になって、立ち止まることを覚えました。

 ここ数年のことだと思います。

 それまでの私は、足を止めずに歩き続けて、道が間違っていることに気付いても、そのまま歩き続けることのできる道を探していたように思います。

 立ち止まることを知らなかったのです。



 立ち止まるのは、アクションを止めるということではなく、立ち止まることそれ自体が、ひとつのアクションなのです。

 そう気付いてから、立ち止まることができるようになりました。

 立ち止まってから、反転して、来た道を戻ることができるようになりましたし、全く苦にならなくなりました。

 立ち止まって、他の人が先に通り過ぎるのを待ってから、また歩き始めるということもできるようになりました。

 50歳を過ぎて、何事についても急がなくなったということもあります。

 スピードやパワー以外のところで頑張らなくてはいけませんから。



 ところで、鈍感力という言葉があります。

 重要な言葉だと、思っていました。

 たしかに私の場合は、いろいろなことを気にしなくなってから、いろいろなことがうまく行くようになった気がします。



 立ち止まることとの関係では、いろいろなことを気にしないようにすることは、心が立ち止まることなのだと気が付きました。

 これも、ひとつの重要なアクションなのです。

 何か心が動じるようなことが起きたとき、心が動じないように、心をしっかり保つこと。

 心が動じたままだと、良い判断ができなくなってしまいます。

 まずは心が立ち止まるよう、心をしっかり保って、心が動じないようにしましょう。その作業に時間をかけてもいいと思います。



 このように考えると、鈍感力という言葉は、ミスリーディングだと思います。全然鈍感ではないからです。

 何か心が動じるようなことが起きたときは、心が動じるのは自然なことであり、心をしっかり保つ力が、大事なのだと思います。




新着順一覧 − 番号順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


2024/4/5
文責:福武 功蔵