海外から東京へ戻ったときに、まるで東京の街並が海外の街並の続きのように思うことがあります。
前回バルセロナから帰ったときもそうでしたが、今回バンコクから帰ったときもやはり東京の街並がバンコクの街並続きのように思えました。
おそらく空の青さ、太陽の輝きと街並のコンクリートに同じものが感じられるのでしょう。
至るところにコンビニがあること等、街での生活は世界中で共通するものがあるのだと思います。
空港からの電車の中で、島田荘司の「進々堂ブレンド1974」という短編小説を読みました。
推理小説というよりは純文学の趣きのある小説でした。
その中で、差別と誇りと生きる活力とは、じつは全て同じものだというようなことが書かれていました。
すなわち、誇りを持って生きている人は誇りを持たないかのような振る舞いをする人を軽蔑して優越感を持つ。
軽蔑が外見に発するようになると差別になる。他方であらゆる優越感は生きる活力になる。
なるほど・・・でも、自分にもこういうところがないだろうかと思うと、ちょっと嫌な気持ちになりました。
そこで、しばらく考えました。
生きる活力としては、優越感でなくてもよいのです。
劣等感が困るのです。
劣等感から自己否定するようになってしまうと、生きる活力がどんどんなくなってしまう。
いじめや虐待が極めて問題なのは、ひとつには、いわれのない劣等感を押しつけるところにあります。
いじめられている側が、「いじめられてしまうのは、劣等な自分も悪いのだ」と思い込んでしまうと、一気に生きる活力を失い、
最悪の場合には死に至ります。
スポーツ選手などで、劣等感をバネにして頑張る人もいますが、
劣等感は必要なものでもないし、理屈上は、そもそも存在するものでもありません。
そもそも、他人と自分を比べるという議論の前提がおかしいからです。
自分は自分、他人は他人。どちらもかけがえのない人です。
頑張る必要があるときは、頑張ろうと思えれば理由は何でもよく、劣等感を理由にする必要はありません。
優越感というものも、よくよく考えてみれば気持ちの悪いものです。
生きる活力として気持ちが良いのは「ふらっと感」だと思いました。
優越とか劣等ではなく、自分と他人がふらっとであると考えるのです。
じっさい、全てにおいて優れる人間はいないし、完全に誰かの代わりになれる人間もいないから、
ふらっとであると考えておいて問題はありません。
まあ、そのような「ふらっと感」すら無しで生きていけるのが一番よいのです。
例えば創作で頭が忙しい人は、自分と他人がどうかなどということに頭を割いている余裕はないでしょう。
何かに夢中になって生きていけるというのは、素晴らしいことなのだなあ。