第7回 寛容についての巻


 寛容について。

 この言葉は、かんよう―kan・yoとしか表現できないように思う。やまとことばだと、「ゆるす」「みとめる」という表現だろうか。

 寛容は、我慢や忍耐とはちがう。「怒りを延ばす」ともちがう(※)。

 寛容は、おおらかな心になって、他者を認めるというくらいの意味です。―そう考えると、「おおらかな心」が大切ですね。



 私たちひとは、結論だけ言うと、言語をプログラムとして動いている生き物です。

 ひとそれぞれに、プログラムの内容は異なるのですが、ひとつ大切なことは、プログラムそのものは私たちひとの内部にはないということです。

 私たちは皆、生まれた後、外から、つまり周りのひとたちの文化からプログラムを学ぶのであり、プログラムは私たちの内部にはないのです。



 もうひとつ大切なことが、寛容です。ひとそれぞれにプログラムは異なるのだから、そのひとそれぞれのプログラムを尊重するべきだと思うのです。



 科学者的な視点から、ひとを作り出すのは無理だという結論に達しました。

 1万年生きるアンドロイドを作ることができたら、そのアンドロイドは世の中に大きな貢献をしてくれるかもしれません。

 しかしそのアンドロイドが成人するには、やっぱり20年以上の時間がかかるのです。

 また、温かい生身の身体とちがう身体を持つアンドロイドは、この点から、ひととは異なる思考回路に陥る可能性があります。SFのように、残酷な独裁者になってしまうかもしれません。



 科学でひとを作り出すのが無理だとすると、ひととは何と尊いものでしょう。

 それぞれのひとはそれぞれに学習した異なるプログラムで動いています。どうしてそのことを責めることができるでしょうか。

 ひとに寛容でありましょう。科学的考察のひとつの帰結として、それが大切だと思います。



 寛容になりたいけどなれない人へのアドバイスとしては、車の運転(それも安全運転)をするとよいと思います。

 道を譲ったり譲られたりで、ひととひととの関係はおたがいさまなのだなあと腑に落ちると思います。



※新訳聖書の「愛は寛容です」の「寛容」の原語は動詞で、「怒りを延ばす」という意味だそうです。




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2017/8/30
文責:福武 功蔵