ヴィトゲンシュタインは、哲学の問題が言語により構成されていることに気付きました。
そして、言語が世界の事象に対応していることに気付きました。
例えば「人生とは何か」という問いがあるとします。
うーん何だか深い問いだなあ…とはヴィトゲンシュタインは考えないのです。
「人生」「とは」「何か」という言葉のつながりであると考えるのです。
そしてこの世界には、「人生」に確定的に対応する「何か」はあらかじめ用意されていないことを指摘します。
ゆえにこの問いには意味はない…とはヴィトゲンシュタインは言いません。
語り得ないことについては沈黙せよ、と言うのです。
ヴィトゲンシュタインが興味を持っていたのは、神の実在だと思います。
神の実在について、この世界にはあらかじめ答えは用意されていないから、
沈黙するしかないという結論を導きました。
しかし晩年のヴィトゲンシュタインは、神の実在を何とかして証明しようとしていたようです。
わたしは、「神」という言葉がある以上、
神は実在すると考えてかまわない、という立場です。
少なくともこれまでの長い歴史の中で、神について思いを馳せ、
神の実在を信じた人がいたことは間違いありません。
言葉とはそういうものなのです。
例えば「ナマコ」という言葉がありますが、
この言葉を聞くと、海辺に住むぬらぬらした、それでいて刺身にして食べると意外とうまい生き物を想像します。
この言葉からは、これまでの長い歴史の中で、
海辺に住むぬらぬらしたこの生き物を勇気を持って最初に食べた先人がいたことが分かります。
やってはいけないことは、このような言葉を奪うことです。
それは何千年もの間に積み重ねられた人々の営為を破壊することにほかならないからです。
言葉は文化なのです。
宗教というものも、歴史のあるものは、文化に近いように思われます。
その人の親もその親もそのまた親も…
ずっと代々そのようなしきたりを守り信じて貫いてきたというのなら、
それはその家系にとっては大切な人生の成功の秘訣なのです。
ヴィトゲンシュタインは、その卓越した論理的思考により、
いったんは神の実在を疑ったのかもしれません。
しかし、神の実在は、キリスト教徒である彼にとっては必要なものだったのでしょう。
だから晩年のヴィトゲンシュタインは、神の実在を求めていたのだと思います。